自分自身の体験から日米同盟を考えるという連載です。
その4回目、自分自身が東京都内での反米デモで投石を受けて、頭蓋骨を割られ、緊急入院して、「重体」と報じられた体験を書きました。
【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(4)「新聞記者、重体」
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| 1968年4月、東京・王子の米陸軍病院をめぐる激しいデモでは、車両も破壊され炎上した |
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| 1968年2月、本紙ヘリから撮影した王子の米陸軍病院 |
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■「米軍は悪」の判定、立脚点とは
ガアーンという衝撃が頭の左半分を襲った。
かぶっていたヘルメットにかなり大きな投石がぶつかったのだとわかった。
しびれだけで、痛みは感じなかったが、すぐに血がたらたらと額を流れ落ちてきた。
東京都北区の国鉄(現JR)王子駅前、三派全学連のデモ隊が警官隊とぶつかる渦の中だった。
毎日新聞社会部の新人記者の私はその取材にあたっていた。
1968年3月である。国際情勢は緊迫し、1月には北朝鮮が米艦プエブロ号を捕獲し、南ベトナムでは北ベトナム側の革命勢力が全土で米軍や南政府軍への総攻撃をかけていた。テト攻勢だった。
日本国内では日米安保条約、つまり日米同盟に反対する動きが過激となり、革新勢力が1月、米軍原子力空母のエンタープライズの佐世保入港に反対する実力抗議を繰り返した。
「帰って来たヨッパライ」とか「新宿ブルース」という歌が流行したころでもあった。
出血がとまらないため、車で近くの十条駅そばの脳外科の病院をみつけて、駆け込んだ。
医師は私の頭皮がヘルメットのくい込みで数センチ切れていると告げ、すぐに5、6針、縫ってくれた。
ちょっと休むと、痛みもないので、また取材の現場に戻ろうとした。
「おっと、念のためにもう少し検査しましょう」
医師は制止し、頭部のレントゲンを撮り、腰椎に針を刺して、脳の出血を調べる髄液検査をしてくれた。
なんと、頭蓋骨(ずがいこつ)にひびがあり、内出血していると診断された。
即時入院である。
その結果、新聞とテレビの両方で簡単な扱いながら「新聞記者、重体」と報じられたのだった。
この部分だけを拡大すれば、私は日米同盟の被害者になったともいえた。
当時、王子の住宅密集地に米陸軍の「王子キャンプ」という基地があり、その内部に陸軍病院があった。
反対派はこの病院を「野戦病院」と呼び、ベトナム戦争で負傷した米兵たちが直接に搬入されてくると主張していた。
「米軍野戦病院」に反発する激しい抗議デモが繰り返された。
米軍の南ベトナム支援を「侵略」と非難し、その米軍に後方支援拠点として日本国内の施設の使用を可能にする日米安保体制を糾弾するわけである。
この王子デモの先頭には全学連の中核派、社学同、反帝学評の3派が立っていた。
私は中核派の担当とされ、市ケ谷に近い拠点の法政大学にいつもデモ前夜から待機して後を追った。
3月28日は学生400人ほどがヘルメット、覆面で角材を手にして、電車を王子駅まで乗り継ぎ、駅からは全員で走って700メートルほどの距離の米陸軍病院に突入を図ったのだった。
取材記者の私もウオーキートーキーと呼ばれたかなり重い無線送受信機を肩にかけ、いっしょに走るのである。
この日の中核派は一部が病院構内にも乱入し、角材や投石で施設を壊して、気勢をあげた。
その後、王子駅前に戻り、他の活動家たちと合流して機動隊と衝突した。
「群衆」と呼ばれる2千人もの人たちがそれを取り囲み、歩道のコンクリートを割った破片などをむやみやたらと投げる。
駅前の商店やオフィスは軒並み破壊された。完全な暴力デモだった。
そんな場面で学生たちの間に立っていた私も投石をまともにくらったのだった。
病院では当初は絶対安静とされたが、4週間ほどで退院を許された。
その後しばらく頭の左半分に圧力を感じる時期が続いた。
だがやがて完全に回復した。
この体験は私にこの種の運動の本質についての思索を強いた。
なにしろ生命にかかわる出来事だった。
長い入院期間はいやでも考える時間が多かった。
米陸軍病院の存在への抗議だけをみれば、そもそもの標的は米国のベトナムでの軍事行動となる。
はるかな地でのベトナム戦争は日本には直接の影響はないとはいえ、米国の行動は「邪悪」であり、日米同盟はその米国に加担する同様の悪だということになる。
だがその「悪」の判定を下す側の立脚点はどこかというと、東西冷戦下の西側ではなく、東側、つまり共産主義陣営のようであることがだんだんとわかってきた。
ただ自分がそのベトナムの戦争を現地でさんざんにみる機会がやがてくるとはまだ知るよしもなかった。
(ワシントン 古森義久)
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by hhonda
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